同窓生インタビュー-6 From The Glass 透明の輝きに魅せられて・後半

自分のことを「瓶屋(びんや)」という齊藤直正さん(1980年・D卒)。長年企業でガラス製品を手がけてきましたが、独学でも手作りのガラスを創作し、作品展などに出展してきました。トップ画像は瓶も写真も齊藤さんによるもので、新古典主義建築が立ち並ぶ上海の外灘(ワイタン)1号地区にて2010年に撮影された作品です。撮影直後に建物の照明が消えたそうで、小さなガラス瓶がまるで電球のように刹那的に輝いています。
この記事は1月に公開したインタビューの後半です。今回は工芸高校の思い出などを中心にお話を伺いました。

[前編はこちら]

語り手:
齊藤直正(1980年・D卒)40年間ガラス会社に勤務。現在は会社役員/日本ガラス工芸学会理事
聞き手:
杉原由美子(1992年・D卒)アニメーション監督、脚本家、歌舞伎解説者

ヘビースモーカーだったあの頃

齊藤:担任の児玉先生には本当に心配をお掛けし申し訳なく思っています。

杉原:優しい児玉先生から「どこにも就職できない」と言われるとは、よほどのことだと思うのですが、どのような高校生活を送っていたのでしょうか? 

齊藤:課題制作はほとんど一夜漬けでこなしていたので、深夜に眠い中での作品作りでした。これでは良い課題を提出できるはずがありません。授業の後はアルバイトに励み、共立講堂の掃除が主でしたが、時給、日給の良いものを選んで、映画やドラマのエキストラも。よって学業の成績はいつも最下位を争っていました。

杉原:普通科目も専門科目も全然勉強しなかったんですね。

齊藤:若気の至りの失敗談は尽きません。剣道部に所属していましたが顧問の先生と意見が合わず、高校1年生の夏、合宿に向かう朝は集合した新宿駅で顧問と対立し、合宿への同行を許されずにそのまま家に帰らされました。とても苦い思い出です。その他にも1年に1回は謹慎処分を受け、3年生の時は私だけ学生服を着て、毎朝1番に登校して教室の掃除をすることになり、恥ずかしさの極みでした。

杉原:先輩だけ自由服での通学が認められなかったんですね。一体なぜそんなに怒られたんですか⁈ 

齊藤:たばこが原因です。

杉原: 80年代のことなので、きっとたばこを吸っていたのは齋藤先輩だけではないと思いますが……、担任の児玉先生にはいろいろご苦労をおかけしたんですね。

齊藤:卒業後、工芸祭に行き、児玉先生と校庭の喫煙コーナーの椅子に座って互いに煙草をふかしながら思い出話ができた時は、心が解放されました。

杉原:学校に喫煙コーナーがあったなんて時代ですよね。

「交剣知愛」−剣を交えて愛(お)しむを知る−

齊藤:学業と異なる方向に注力してしまった事は反省ですが、すべての経験が肥しになって現在に至っていると思います。技術や知識より、精神論を学んだ3年間とでも言うべきでしょうか。工芸高校で良き恩師、仲間と出逢えた事は人生の宝物と感じています。

杉原:剣道部の顧問の先生と馬が合わなかったそうですが、先輩は卒業後も剣道部のOBと交流を続けておられますね。

齊藤:世代を超えた剣道部のOBが交流する会「交剣知愛」です。今でも時々母校で大先輩や後輩達と剣道で汗を流す事が叶っている事に望外の幸せを感じています。

工芸高校の剣道トレーニング室にてOBと在校生との合同練習

※「交剣知愛」についてはこちらの記事に詳しく紹介されています。

13人 工/芸/交/差/展 13色

杉原:卒業生有志の作品展を行ったことがあると伺いました。

齊藤: 2000年頃、工芸高校の同窓生と集まる機会が幾度かあり、結果13名の朋友と2004年7月に「工芸交差展」を開催しました。児玉先生への恩返しのつもりで企画した展示会です。13人・13色と言う様々なジャンルのテーマで、デザイン科だけではなく印刷科(現:グラフィックアーツ科)、金属工芸科(現:アートクラフト科)の部活繋がりの仲間から、私達の副担任だった君島先生も参加してくれました。

杉原:交差展、と交差点…それぞれの歩んでいる道や、異なるジャンルが行き交うようなイメージの名称が素敵です。ちょうど今から20年前になりますね。

齊藤:企業内デザイナーにとっては、何の縛りもなく自由で創造的な表現ができ、心の垢を洗い流す様な清々しい感覚でした。2回目の2006年を最後に中断していますが、いつか3回目を開催したいと構想を練っています。

2004年7月 工芸交差展のDMと展示会の様子

齊藤:2010年頃から、元デザイン科教諭の中島千絵先生(現在は玉川大学芸術学部 アート・デザイン学科教授)が日本協会事務局長を務めるアジア・ネットワーク・ビヨンド・デザインANBDに参加しています。ANBD は「アジアのアート・デザインの文化的なアイデンティティ創造へのさらなる貢献をめざす」という理念を掲げ、毎年アジアの様々な都市で展示会を開催しています。トップ画像の写真も2010年に横浜で開催された「ANBD2010横浜展」に出展した作品です。昨年、2023年のソウル展では現地に行き参加交流してきました。

杉原:今年13回目となるデザイン科卒業生有志の作品展「おとなの工芸祭」にもほぼ毎年参加されていますが、作品展にはいつもガラス作品を展示しているのですか?

齊藤: グループ展などでは、手作りのガラスをメインに発表しています。現物を持参出来ない海外の場合などは写真を撮り、デジタルデータとして展示しています。ガラスの制作過程では気を抜くと大怪我に繋がります。いつも緊張感を持って制作しています。ガラスは本当に美しく、神秘的な素材です。現在はガラス文化の普及活動として、日本ガラス工芸学会 に所属しています。

杉原:ガラスに関しての知見は、この記事のタイトルにも引用させていただいた『FROM THE GLASS』という冊子にまとめられますね。
※『FROM THE GLASS』についてはこちらの記事に詳しく紹介されています。

人生は出逢いがすべて 人は互いに影響し合って成長する

杉原:インタビューの前半では、就活中に「就職しても3ヶ月くらいしか続かないと思う」と児玉先生におっしゃったそうですが、最終的には40年間も勤められた。それはやはり「ガラスの魅力」が先輩を引き留めたのでしょうか?

齊藤:それほど単純なことではありません。高校生の頃は世間知らずの若者(馬鹿者)でしたが、入社してすぐに自分の実力を知り、壁にぶつかりました。悩みながらも冷静に考えていく毎に会社組織の良い点、利用すべき点が山の様にある事に気が付き、1つ1つ挑戦しながら歩んできたら40年が過ぎていました。特に就業規則内の留学規定で工業デザインを学ばせてもらった2年間は今振り返ってもとても貴重な経験でした。入社当時は商品企画・デザインを担当し、後に広告宣伝(展示会担当)を20年余、最後の10年間は抗菌ガラスの市場拡大の為、中国を始めインドへの拡販に努めました。生産現場の管理をする為にいくつかの国家資格も身に着ける事が出来た事などを振り返ると、入社3か月で退職などしないで本当に良かったです。よく言う様に“短気は損気”ですね。また我が身を振り返ってみると、20代の頃は恋愛に縁がないと感じていましたが、妻と知り合い社内結婚に至った事など、人生のひとつの起点になった就職だった様にも感じています。

杉原:児玉先生が運命の神さまのように思えてきました。

齊藤:児玉先生だけでなく今まで様々な場所でいろいろな方と出逢い、協働し、苦戦した事も良い体験だった事に間違いありません。人だけではなく、50歳を過ぎた頃からはいくつもの病と出合ってしまい、入退院を繰り返しました。還暦を過ぎ、社会人としての峠は過ぎましたが、今後は自分が経験・体験してきた事などを国内外に限らず出逢う方々と共有し、健康で楽しく過ごして行ければ本望です。人生は出逢いがすべてであり、人は互いに影響し合って成長するものと信じます。今後の余生でも友人知人、また新たに出逢う方々にも敬意・愛情をもって交流し日々過ごして行きたいと思います。

「人間にとって、その人生は作品である。」―司馬遼太郎―

これは私が共感することばです。

インタビューを終えて

齊藤先輩とは顔を合わせる機会が度々あっても、これまでじっくりお話しを聞く機会はありませんでした。日常会話では経験の豊富さからエピソードトークがメイン、ですがその内容の濃さから、これまでどんな経験をされてこられたのだろう? といつも不思議に思っていました。今回はじめてじっくりお話しを伺うことができ、いろいろ納得することができました。ですが、取材の後に体調を崩され、今(2024年7月)も入院中。一日も早く回復されますことを心よりお祈り申し上げます。取材にご協力いただき、ありがとうございました。