連載-12 もっと知りたい都立工芸の歩み「旧松平邸の面影残す池と金毘羅様」


松平奨学賞メダル

松平氏より敷地購入

工芸学校が震災後移った水道橋の現在地は、旧讃岐藩・松平頼寿氏の邸跡であった(建物は焼失していた)。東京府議会で賛同を得て、宇佐美勝夫府知事をはじめ関係者の尽力により、松平伯との敷地売買契約が結ばれたのは1925年(大正14)7月であった。交渉に当たった当校の宮武義次郎教頭の先祖が松平家の槍術の師範であったことも、松平伯が工芸学校に土地を譲る同意につながったという。東京府はたいへん安く売ってもらうことができた。松平頼寿は土地売却費の利子を用いて工芸学校の生徒に松平賞という奨学金を出された。


写真 新校舎南側に復元された池

旧松平邸の面影を残すことに配慮

移転が決まったときに旧松平邸跡地には池が残っており、在りし日の名庭園を偲ばせていた。池は新校舎敷地にかかり工事で潰されたが、近藤校長はその姿を南側に復元した。
讃岐高松といえば金刀比羅宮があり、その祭神が金毘羅童子だと言われている。松平家の守護神として、寛政5年に邸内に金刀比羅宮が創建された。金毘羅様信仰は讃岐松平家の江戸屋敷によって江戸にも広まった。松平邸にかつてあった金刀比羅宮を工芸学校でもお祭りしようと、近藤校長は故郷の新潟県から宮大工を連れてきて、木材工芸科の吉見誠先生や生徒と共に社殿の建築にあたらせた。金具類は金属科が作った自家製だった。
1929年(昭和4)10月10日小じんまりとしていたが、立派な社殿が学校裏手の崖上に完成した。鳥居も小さいけれど立っていた。讃岐の本社から御神体も勧請した。以後10月10日を金毘羅様の日として金刀比羅宮から宮司を招いてお祭りをした。笙、ひちりきの音も厳かに祝詞があげられた時期もあった。バラの門を作り参道の右側に花壇ができて、園芸部の生徒により整備されていた。参道を出ると藤棚があって、そこに相撲の土俵が作られていたときもある。
この金毘羅様に戦時中は国の戦勝を祈願し、出征した職員の武運長久を祈願した。戦後、GHQから学校内に神社を置くなという命令が出た。やむを得ず建物は取り外して生徒昇降口の横に置き、御神体は讃岐に納めた。

※このコラムは「工芸学校80年史」「都立工芸100年の歩み」から文章を引用して再構成しています。